安江先生のこと

 画家・安江静二先生に会ったのは、1995年(平成7年)9月、先生の個展会場のヒガシギャラリーでした。不自由な身体を車椅子に乗せ、多くの弟子に囲まれていました。先生の描くどの作品も、深く、慈しむ気持にあふれ、自分自身が、何のために生きるべきなのかを問いかける緊張感に漲っていました。鑑賞に訪れた方の中には眼に涙を浮べて絵に見入ってる人もたくさんいました。

 

 

 安江静二先生は、13才の時、当時は不治の病といわれた小児麻痺におかされ、多感な少年時代以降、半身不随の生活を余儀なくされてきました。1926年(昭和2年)のことでした。悲惨な生活の始りでした。兄嫁や世間体を考え、畑の中の小さな家を与えられ、家を出て一人の生活をするようになりました。

 

 歩くことさえおぼつかない彼に向って、非国民だとか、電信柱とか、容赦のない言葉が飛んでくる時代でした。戦争が始り、兵隊検査に呼ばれた彼に若い中尉が言いました。「戦争に行くだけがお国のために尽すのではない。君に出来ることをして下さい。」そして、部下に家まで送るように言いました。

「私にできることがあるのだろうか?」半身不随の身体で出来ることとは何なのだろう?

 

 安江少年は、姉が絵が上手だったことを思い出し、戦争で亡くなった人たちの肖像画を、自らの身体を横たえ、手の位置を工夫して描きはじめました。その肖像画はまるで生きているかのようで評判を呼び、全国肖像画展で初入選や各地の肖像画展で受賞するようになりました。

 

 戦争が終りましたが、極貧の生活を街の人達の善意と、文化に対する憧憬の気持が支えていました。

      “このような身体で、何のために生きているのか。

       何のために生かされているのか。”

 

 自身への問いかけに、絵を描くという毎日を通して求め続けて来られました。

 

 38歳の時結核に感染し、4年間の療養所生活を過ごしました。

退院後、伊勢湾台風で流されてきた「根っこ」や、無残にも「捨てられた傘」、見向きもされない「石の華」などに自分自身を見出し、「捨てられた物」シリーズを描き始めました。相変わらず赤貧の生活でしたが、市からの生活保護の申し出も断り、どん底の生活の中で自身の存在の意義を絵筆を握ることで求め続けてきました。

 その後、次第に絵を習いにくる人も増え、創造美術展に出展する作品が受賞するようになってきました。

 

 安江先生82歳の個展の時、会場で安江先生の手を握った瞬間、その手から熱いものが伝わってきました。ボクの眼からぽろぽろと涙が落ちました。不思議でした。それは落ちると云うより涙があふれ出る!という表現が合っているかと思います。たくさんの人がいる展覧会場で涙をみせるなんて考えられませんでした。恥ずかしいという気持ちは全くありません。それ以来、先生の手を握るたびに涙が落ちました。それはボクだけではなく、多くの人がそうでした。そんな時に思いました。

 

      「この先生は神様に近い方じゃないか」と…

 

 いろいろな方々が安江先生と会いました。来られる方は皆さん悩んでおられたのでしょうか。先生に会って手を握った瞬間、例外なく涙をぽろぽろと流されました。先生はニコニコと何も言わず手を握っていました。

 

 自分にとても厳しく、常に謙虚であれと言い聞かせていた先生でした。会うときには必ず手を合わせ「皆さんのおかげです。有難うございます」と言い頭を下げられました。

 

 

 安江先生は1999年(平成11年)の9月亡くなりましたが、偶然、臨終に立会うことができました。旅立つ先生の姿は青年のままに見えました。86才でした。

 

 先生のアトリエは当時のままで、思いのこもったたくさんの作品と、膨大な哲学書、モチーフの壺や埴輪などが今にも崩れそうなアトリエに残っていました。数年後、持ち主の都合でアトリエを売ることになり、どこかに先生の歩いた痕跡を残そうと考えるようになりました。そして先生の思いの籠もった作品や書物を預かって8年後、安江先生が亡くなってから15年後、多くの方々の熱望と援助で、小さな、小さな「安江静二心の記念館」が出来ました。 多くの皆様に感謝です。 

                                                (阿部武東 記す)